アニエス・ベー AGNES B.:1975-(FRANCE)

アニエス・ベー AGNES B.:1975-(FRANCE)

アニエスベーというとトータルのファッションブランドであるが、財布や時計などの小物を好む人も多い。(2017年08月17日 最終更新)

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フランス人デザイナーでありながらアニエス・ベーほどその名を日本で広く知られている人はいないのではないだろうか。といっても彼女の本名はアニエス・トゥルブレ。Bは、最初の夫の姓の頭文字で、現在はその夫の長男が経営を担当。
そしてその後加わった家族とともにファミリーで会社を営んでいる。名前ともブランドともつかない”アニエス・ベー”というその語感は、本国フランスばかりでなく日本で、また世界中で抵抗なく受け入れられて根づき、現在に至っている。
そのアニエスが生まれたのはパリ郊外のヴェルサイユにある弁護士の家だ。いわゆるプルジョワ家庭で、アートに関心のある父の影響を受けた彼女は美術館のキュレーターになるべくヴェルサイユ美術学校で学ぶ。
ファッションと関わるきっかけは17歳で結婚し、19歳で母親となった後離婚し、働かなければならなくなった時だ。
彼女自身のファッションが注目され、「エル」誌の編集長にすすめられて、「エル」のジュニアモード担当編集者となったのだ。その後、当時パリで最先端のモードを発表していた”ドロテビス”で2年間働いた後は、フリーのデザイナーとして”ピエール・ダルビー”等の仕事をしつつ、彼女自身が好きなシンプルで着易い服を作りたいという望みをはぐくんでいった。
その結果、1975年に”アニエス・ベー“1号店をオープンした。場所は、プルジョワ的なヴェルサイユとは対照的なパリ1区。中央市場が引っ越した後のジュール通り3番地の肉屋を改造した店だ。タイル張りの床など肉屋の店舗の特徴が生かせるものはそのまま使った作り自体も人々に強い印
象を与え、飾らないシンプルな店はたちまちパリ中の話題になる。
そこで売られるようになったのが、流行に左右されないシンプルで着心地の良い服だ。他のブティックとの大きな違いは、シーズンが終るとすべての商品が入れ替わってしまうのではなく、ボーダーTシャツや革のジャケットなど、いつまでも着続けられ望まれる商品は、何年も続けて置かれている
こと。1979年が最初の出荷となったカーディガン・プレッションはなかでも爆発的ヒットとなった。ドットボタンつきの綿メルトンのカーディガンはそれこそ地球規模で売り上げをのばし、今日まで世界中で200万枚以上を売りあげている。
定番商品という考えが人々の中に根づいている現在では当然のようにも思えるが、パリプレタが年2回のコレクションで次々と新しい流行を生み出していた70年代後半、しかも世界中の人々がその流行に追いつこうと必死になっていた時代にアニエスが実行したこの物作りは、着ている人より服が目立つのは嫌という彼女の考えを如実に物語っている。
というわけでモードの都パリの中心にいながらアニエスはいわゆる大々的なファッションショーはしない。ショールームで、身近なモデルに着せた新作を気軽な雰囲気でプレゼンテーションするだけだ。フランス人には珍しくパーティー嫌いな彼女は、イヴニングはもちろんのこと、大袈裟なパーティードレスも決して作らない。
1号店に続き1980年にはニューヨーク店をオープン。
81年には1号店の向かいに男物と子供服の店を、83年にはアムステルダムに女物、84年には日本の1号店と、パリにロリータ店を、その後もイギリス、オーストラリア、スイス、香港と、文字通り世界中に店を展開した。
さらに90年代後半にはホノルル、シンガポール、レバノン、ベイルートとほとんど地球をおおいつくす勢いだ。フランス国内店舗が35なのに対し、日本が42店舗というのも、日本での知名度の高さと、その裏にある日本人好みの要素があることの裏づけといえよう。同時に女物だけでなく、男物、子供服を同じコンセプトで作り続けているのも、他のデザイナーにはない彼女だけの本領といえる。常に大家族で暮らし、みなが同じように心地良く過ごせる服を作りたいという彼女の願いがこめられ、それがまた多くの人の共感を呼んでいる。
デザイナーであるにも拘らず、モードには興味がないと言い切る彼女のもうひとつの顔は、アートのパトロンと言ってよい。1984年には1号店と同じジュール通りに”ギャラリー-デュ・ジュール“をオープンした(現在はカンカンボア通りに移転) 。そこで、若いアーティスト、画家、写真家の作品を展示し公表の機会を与えている。特に写真には興味があり、アニエス自身もよく撮るのだが、まだ世間には知られていない若手写真家の支援を積極的に行っている。他にもアーティストに白紙委任して作られるフリーペーパーの発行もするし、また映画への協力も惜しまない。一般公開が難しいと言われていたジャン・リュック・ゴタール監督の『右側に気をつけろ」(1987年)へのサポートは話題となった。ボランティア活動にも関心を示し、サラエボ支援のためのアクセサリー販売、阪神大震災復旧用のTシャツ販売等、さまざまな活動を行っている。
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