アズディン・アライアとは

アズディン・アライアとは

ボディコンシャス・モードの創始者として知られるチュニジア出身のデザイナー アズディン・アライア (Azzedine Alaia)のシグネチャーブランド。(2017年08月17日 最終更新)

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チュニジア出身のクチユリェ、アズデイン・アライアは、手がける作品からそのプレゼンテーションにいたるまで、すべての点できわめて独自なデザイナーである。いわゆるブランドという語の響きからこれほど遠いクチュリエもいないだろう。
いつも中国製の黒服に身をつつんだこの小柄なチュニジア人は、90年代に入ってからコレクションに参加するのをやめ、マレー地区にある自宅を兼ねたアトリエで、「見せる人にだけ見せる」やり方で制作を続けてきた。大量生産からもっとも速いその版作りは、この意味で職人芸の極みと言、つべきかもしれない。
彼のその職人的な芸はしかし、圧倒的なインパクトで80年代ファッションを席巻した。彼アライアこそ、あのボディコンシヤス・モードの創始者なのである。
アライアのボディコンシャスは、それまでの西欧的クチュールの伝統を支えてきた構築的な造形性とはまったくコンセプトを異にしている。従来のオートクチュールの手法が、理想のボディラインに服を合わせ、いわばその服にからだを「おしこむ」ことで出来あがるそれであるとすれば、アライアはその逆をゆく。というのもアライアにとっては、はじめにまず女性のボディが存在するのである。そして、服はそのセクシーなボディラインの美しさを際立たせるものにほかならない。服をまとうことで、裸体を裸体以上に強調することそれがアライアのボディコンシャスなのである。
そのために彼が何より大切にするもの、それが「素材」である。ボディラインを際立たせるため、アライアは新しいストレッチ素材を使った。からだにぴったり吸いつくようにフィットするボディスーツやチューブドレスは、今や80年代ボディコンシャスのアイコンにすらなっている。こうしたアライアのデザインを最も美しく着こなすお気に入りのモデルがナオミ・キヤンベルである事実一つをとってみても、「はじめにボディが在る」アライア・ファッションの特質がよく表れている。アライアは、「身体こそ第一の衣服である」という真実にかたちをあたえたデザイナーなのである。
彼のデザインはしたがって色も型もシンプルで、余計な装飾性がない。だからこそボディを際立たせる素材がいのちなのである。その素材で一言守えば、ストレッチとならんで透明感あふれるレーシーなニットもアライア好みの素材だ。透けて見えることで裸体を感じさせるレーシーなモードは、ファッションの根本にある、身体と布、「見せる」ことと「隠す」ことの緊張関係を、文字どおり「肌でわかる」ように可視化してみせる。アライアのボディコンシャスは、そのままスキンコンシャスでもあるのである。
このように彼が伝統的クチュールとは異質な発想のファッションを自由に創造できるのは、古典的なクチュールの技法を十全に習得しているからこそである。1950年代の終わり頃、20代の若さでパリに出てきたアライアは、ギ・ラロッシュのアトリエで半年ほど働き、そこでオートクチュールの手法を学んだ。オートクチュールの技法と美学にたいするその造詣の深さは、彼がマドレーヌ・ヴィオネの研究家であり同時にコレクターでもあるという事実が語っている。さらにそのコレクションにはシャネルやディオールもそろっているというのだから、このチュニジア人がいかに西欧クラシックのエレガンスに通暁しているか、うかがわれようというものだろう。
1980年に独立したアライアは、90年代のある時期からマイペースの姿勢を貰き、ファッション業界とは一線を画しているが、ここ数年ふたたび世界の注目を集めて、さながらアライア・ルネサンスの観がある。1998年、オランダのフローニンゲン美術館で開かれた「Marseill in DATE」展ではピカソやアンゼルム・キーファーなどの作品とともに彼の作品が並べられ、20003年秋にはニューヨークのグッ20003ム美術館(別館)でアライア回顧展が開催された。
こうした世界的再評価をパックにしながら、ファッション界でもまた、80年代モードのリパイパルとともに、鳩目やパンチングをあしらったデザインやボディスーツ、レーシー・ニットなど、明らかにアライアに着想を得たデザインがさまざまなコレクションに登場している。
こうしたアライア再評価の動きの極めつきともいうべきなのがプラダ・グループとの契約だろう。プラダのオーナー、ペルテッリは、「アライア財団」の設立をはじめ、アライアの全仕事を支援する方針をうちだした。プラダ傘下でこの「永遠の職人」がどのような創造を展開してゆくか、熱い注目を集めている
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