日本人ブランド熱愛史

日本人ブランド熱愛史

海外ブランドブlムは、第一次が一九七0年代のはじめ、第二次がバブル経済時、第三次が丸0年代半ば、そして現在が第四次フlムの真っ直中だ。もっとも、これはあくまで大きな波であって、その聞に日本人のブランド志向が弱まったということではない。ブランド好きは日本人の国民性のようなものだ。 この章では、日本人のブランド熱愛の歴史を探ってみたい。(2017年08月17日 最終更新)

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ブランド

戦前、ブランド品ば上流階級御用達だった

そもそも日本人はブランド好きだ。『広告の中のニッポン』(中国節子ダイヤモンド社 一九九三年)では、江戸っ子たちが、当時の人気歌舞伎役者や有名人、美女の誉れ高い有 名人を広告に起用した着物や帯、化粧水、せんぺいなどに群がっていた様子が紹介されて
いる。誰もが知る有名人のネームバリューに日本人が弱いのは、今も昔も閉じのようだ。 しかし、海外ブランドとなると、明治維新を待たねばならない。「ブランド」という言 葉こそなかったものの、舶来の高級品を自にし手を触れる機会を生んだ明治維新が、海外
ブランドブトムの発端だ。 「舶来」とは、船舶が輸入品を運んできたことからつけられた。化粧石鹸、ビ lル、ビス
ケット、チョコレート、アイスクリーム、万年筆、魔法瓶などが続々と海の向こうから到 来し、人々の輿味を集める。こうした舶来品や舶来品を模した国産品をいち早く身につけ る人は「ハイカラ」と呼ばれたが、本当の意味での.フランドロ聞を手にすることができたの は、皇族、貴族、富豪、外交官、一部の商社の関係者だけだった。
たとえば、日本でヴィトン製品をはじめて購入したのは、大政奉還の運動で知られる後 藤象二郎だ。横浜から船でフランスに向かった彼は、明治一六年(一八八三年)にパリの庖でヴィト γのスーツケースを買い求めた。大正一 O年(一九二一年)には、裕仁皇太子 (昭和天皇〉がやはりスーツケースを購入している。
これらの記録はすべてヴィトンの顧客台帳に残されている。ヴィトンのトランクには専 用の鍵がついていて、客はトランクといっしょにナンバーが打たれたパーソナルキーを手 渡される。トランクを買った客はこうしてヴィトンの顧客台帳に記録されるのだ。
この顧客台帳の顔ぶれは、チャールズ・リンドパ lグやマレ lネ・ディ lトリ y ヒ、コ コ・シャネルなど世界中のセレプリティ揃い。こうしたセレプに連なることのできる日本
人だけが、ブランド品を目にし、入手することが可能だった。
後藤がヴィト γを購入したその年、東京・麹町に政府が建てた官設歓楽場、鹿鳴館が開
館した。鹿鳴館で聞かれる夜会には、当時のフア V ションの中心地パリから輸入されたド レス、帽子、アクセサリー、パ Vグ、靴などの外来ファッションを身につけた男女が集ま っていた。おそらく、夜会は高額な舶来品、外来品の展示場さながらの光景だったのだろ
〉円ノ。
庶民はといえば、ヘアスタイルやアクセサリーなどで西洋ファッションをつまみぐいし、 ひさしがみ
和装との調和を図っていた。二 O三高地ともポンパドゥ 1ルともいわれた底髪がその典 型だ。今にして思えば着物とは相容れないヘアスタイルだが、当時の女性は真剣そのもの。西洋文化への憧れがこうした奇天烈な形となって現れたようだ。
大正時代も後期になると、モボ・モガ(モダンポ lイ・モダンガ!とが出現し、洋装を 取り入れる女性がぽつぽつと増えてきたが、洋服が町の風俗として普及しはじめたのは、 元号が昭和に変わってからだ。ただし、身分制社会が敷かれていた戦前までは、ブランド 品の購入客は明治・大正時代同様、華族や大土地所有者、財閥をはじめとする少数の資本 家階級に限られていた。
富裕な綿貿易商の次男として生まれ、後に吉田茂の.ブレーンとして GHQとの交渉役を つとめた白洲次郎も、ヴィトンの所有者の一人だ。一七歳でイギリスのケンプリ yジ大学 に留学し、その後も海外に頻繁に足を運んだ白洲はヴィトンの旅行用トランクを愛用して いた。
彼の生涯を写真とともに紹介した『白洲次郎』(卒凡社一九九九年)には、このヴィト ンのトランクのほかに、当時の最高級車ベントレーやブガティ、ダンヒルのライターやロ レックスのオイスタ l、エルメスのクロコダイルのアタッシェケースなど、彼が愛した
品々が登場する。一般の庶民が見たことも聞いたこともない一流のブランドを手にするこ とができたのは、白洲次郎のような立場の人間だけだった。
それがようやく戦後になって、ブランド品が町の風俗となり、ヴィトンやグ yチのパ yグが大衆に浸透する時代が訪れることになるのである。

アメリカ.ブランドに支配された占領期間

敗戦を迎えた日本人を魅了した舶来品は、 アメリカ製品だった。服飾評論家の南静は、 戦後の日本をこう振り返っている。
女性の衣生活においても、複雑な障壁なしにアメリカのファッションの影響が直接、 なまの形で受け容れられた。(中略)占領期間中の数年間、日本はアメリカの植民地 のようにアメリカのファッションに支配される。〈婦人画報社『ファッションと風俗の 河年』 一九七五年〉
百貨庖の多くは進駐軍に接収され、 pxqoa何一同nvgmm進駐軍関係者向けの購買部〉に
なり、それとは別に、民間の外国人が利用する OSS( 4句 。psgR巴も開設された。
アメリカンライフスタイルを彩る庖の出現である。銀座の松屋は全館 P Xだったし(メル サで一般客向けの商いを行っていた〉、大阪・心斎橋のそごうもそうだ。東京の高島屋には OSSの売場が設けられていた。P XやOSSで買い物できるのは一部の人聞に過ぎなかったが、品物はこっそりと闇市 に流れていたため、日本人がアメリカ製品を買うことは不可能ではなかった。また、一九 五O年に勃発した朝鮮戦争による軍需で、日本の産業界は活気を取り戻しつつあり、景気 の上昇とともに舶来品を購入する日本人は着実に増えていった。
こうした日本人を対象に舶来品を販売していた庖の一つが、有楽町のサンモトヤマだ。 闇屋出身の茂登山長市郎(現会長〉が五五年に開設した屈には、アメリカの商品がずらり と並んでいた。ノックスの帽子、スポルディングやウィルソンのゴルフセット、ジッポー のライター、レイパンのサングラス、パ lヵーやシェ lファ lの万年筆Tl。腕時計だけ はロレックスやオメガなどスイス製品が多かったが、中心はあくまでアメリカの@ブランド だ。アメリカ以外の国のやブランド品を調達することは、ごく限られた高所得者層を除いて、 当時はまず不可能だったのである。
茂登山は次のように述べている。
昭和初年から初年までの叩年聞は、日本の中の舶来品は九九%がアメリカ製でした。 これを私は、 HGI文化の時代uと名付けています。 Gーを通して入ってくるアメリ カの商品がすべてでしたし、もちろん我々に高級な物は手に入らなかったわけですが、 ラ6
色々なブランドを覚えることもできました。彼らは私にとって、先生としての役割も 果たしてくれたのです。(大内順子・田島百利子源流社『却世紀日本のファッション』
一九九六年)
その後、日本ではじめてフェラガモやロエベ、セリ lヌ、グッチを扱い、ヨーロッパの そうそうたる高級ブランドを集めて、海外の一流品ばかりを売る庖として高い評価を得る サンモトヤマも、当時はアメリカの舶来口問、今から考えれば、必ずしも「高紐」とはいえ ない.フランド品が多い庖だったのである。

ヨーロッパブランドが続々上陸した五 0年代後半

一九五 0年代も後半に入ると、アメリカ一辺倒の時代に変化の兆しが見えはじめる。デ ィオ lルの秋冬コレクションが五三年に東京と大阪で開催されたのをきっかけとして、パ リのファッションがなだれを打ったように日本に紹介され、大丸、高島屋、松坂屋、伊勢
丹、西武が次々とパリのクチュ lル庖と特約関係を結んだ。
パリモ lドの進出でヨーロッパのファッションに目を向けはじめた日本人を対象に、高
島屋は五六年に「イタリアンフェア」を開催する。輸入の自由化が認められていない時代にこうした輸入品フェアがなぜ可能だったかといえば、文化交流の目的のもと、イタリア の百貨庖・リナシェンテも同じ金額だけ日本製品を買いつけて日本フェアを実施するとい う交換条件で、当時の通産省から一 O万ドルの外貨の割り当てを許されたからだ。
日本初の「イタリアンフェア」の会場には、イタリアの革製品、ベネチアングラス、陶 器、家具、調度品、服飾品など約四万点が集められ、販売された。結果は大盛況。期間は 一0日間だったが、三日間でほとんどの商品が売り切れたという。会場には裕福な日本人
が大挙して押し寄せ、イタリア製品に大枚をはたいた。 サンモトヤマの茂登山もその一人だ。会場で買った商品を半年間ほど寝かせてから、屈
で売りに出し、すべて完売させた。サンモトヤマがこの後、イタリア製品のウエイトを高 めたのも、フェアに並ぶイタリア製品の素晴らしきに感動したためだったという。
高島崖の成功が刺激となって、百貨庖業界では輸入品フェアの開催が続く。スウェーデ ンフェア、デンマークフェア、フランスフェア||。それは、ヨ lロV パ製品の魅力の虜 になった日本人が多かったからにほかならない。確実な集客と売上が見込めるからこそ、
輸入品フェアはプ lムになったのだ。
この人気に目をつけたのが、閉鎖された OSSのマネージャーをはじめとする卸商人た
ちだ。彼らが買いつけたヨーロッパ製品は大手商社の現地駐在員を介して日本に持ち込まれた。こうしてヨーロッパ製品が少しずつ日本人の聞に浸透していった。
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