イッセイミヤケ ISSEY MIYAKE:1970(JAPAN)

イッセイミヤケ ISSEY MIYAKE:1970(JAPAN)

1970年に三宅一生が「三宅デザイン事務所」を設立、71年、ブランド「ISSEY MIYAKE(イッセイ ミヤケ)」としてニューヨークにてコレクションを発表。(2017年02月19日 最終更新)

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1980年代から多くのデザイナーたちがめざしてきた方向は、ジェンダーの枠から自由でありかつセクシュアルな衣服、あるいは身体性を制約しない衣服、逆に身体性に制約されない衣服、ときには第2の皮膚とも形容される衣服、いいかえれば究極のモードを求めることであった。こうした方向性の具体化を主導したのは、三宅一生をはじめとする日本出身のデザイナーたちであった。
日本出身のデザイナーたちは、自らの才能を発郷しモードの世界で仕事をするためには、好むと好まざるとにかかわらず西欧的な衣服の論理を理解しなければならなかった。ときには違和感をのみこまなければならなかったにちがいない。
そして、まさしくこうした違和感こそが、差異化と造形主義に基づく西欧的な衣服論理の外側にでることを可能にし、行き詰まりを打破するにあたって指針を与えてくれたのではないか。
三宅一生は、1938年広島で生まれた。64年に多摩美術大学卒業後、翌65年にパリへ渡り、パリ・クチュール組合の設立した学校を修了した。66年にギ・ラロッシュで仕事を始めたが、三宅一生の希望は、パレンシアガのもとで仕事をすることであった。パレンシアガといえば、かたちの大胆な単純化と素材のたゆまぬ探求を通してヨーロッパの衣服デザインを完成させた人物である。しかしバレンシアガは、68年に店を閉めて引退してしまった。三宅一生は、この年にパレンシアガのアトリエチームの一部を引き継いだジパンシィの店に入り、パレンシアガの感性と技術、とりわけ布の特性の重視とフォルムの単純化の重要性を学んだと以われる。
1970年代に入ると、三宅一生は活動地点を東京(1970年、三宅デザイン事務所設立)、ニューヨーク(1971年、初のコレクション)へと広げていく。1973年にはパリでもコレクションを発表した。1975年には、パリにブティークを聞いた。三宅一生のオリジナリティに世界が注目したのは、1976年に発表した〈一枚の布〉のころからである。
三宅一生の最大の仕事は、衣服のために人間がいるわけではなく人間のために衣服があるのだという、当たり前なのに長いあいだ受け入れられなかった考え方を定着させたことにある。こうした考え方はすでにマドレーヌ・ヴィオネが主張していたことであるが、三宅一生はそれを徹底させて「素材とかたちと機能とが有機的に絡み合った、それまでのどこにもない〈服〉」をつくりあげた。三宅一生は、日本の着物のシステムがもっていた最良の、しかも近代の着物が捨て去ってきた部分を、異国趣味にいっさい訴えることなく、またキッチュに陥ることもなく、現代の衣服として甦らせることに
成功した。
三宅一生の探究の本質的な部分とは、いったいどこにあったのか。それは、布地の平面性への注目である。
衣服は、平面である布地を立体である人体に着せることで成り立つ、本来的に矛盾を内包する造形物である。西洋の衣服は、長いあいだ、身体を衣服に合わせることでこの矛盾を解消したふりをしてきたが、三宅一生は、そうした考え方を明確に否定した。そして、衣服は着られることではじめて造形されるのだというコンセプトを打ち出したのである。
三宅一生の服について、J・サヴィニョン(ヴィオネ研究家)は「肉体とドレスの親密性は、動作によってかすかに生み出される、かりそめの、意想外の関係でしかない」と指摘している。衣服は動きのなかではじめて、波打ち、輝き、息づくことになるのである。
「イッセイの服は着やすい」と、だれもがいう。三宅一生ほど身体の自由を重視する造形家は多くない。しかし、三宅一生ほどフォルムの造形にこだわるデザイナーはいないのである。イッセイの服においては着やすさが「だらしのなさ」の口実になることはけっしてない。それは、身体と衣服の間の
空間、すなわち「ゆとり」あるいは「間」が、素材の特性を熟知したうえで巧みに計算されているからである。三宅一生の試みは、ベルギー、オランダの創作家に大きな影響をおよぼした。袖付け部分をそっくり前に移動して着物のように折り畳みが自由なスーツを作って注目を浴びたマルタン・マル
ジェラは、その代表である。
三宅一生のもうひとつの独創性は、素材への着目である。日本の伝統的な素材を再評価して現代の衣服に取り入れたとよくいわれるが、三宅一生の布地へのこだわりは、新しい素材や技術の開発の面でも発揮された。その代表的なものが1980年代後半に発表された「プリーツの衣服」であり、93年10月のパリ・コレクションで紹介し、商業的にもヒットした「プリーツ・プリーズ」であろう。プリーツの衣服の新しさは、縮みやクレープ地のようにすでに〈しわ〉がある布地を裁断するのではなく、裁断し縫製した服にプリーツをかけてみせたところにある。このようなプリーツの技術はすでに50年代から知られていたが、三宅一生は、そうした技術を、新しい衣服の傾向を造形的に実現する手段として発展させ、いわばモードの文脈のなかにのせることに成功した。
20世紀モードの歴史は、抑圧を受けない「自然な身体」を発見するための旅であった。ヴィオネやフォルチュニあるいはシャネルの作品には20世紀ファッションのプロプレマティーク(問題系)はすでにすべて提出されていた。三宅一生は、そうしたプロプレマティークのすべてに回答を与えたかに思える。にもかかわらず三宅一生は、東京での1999年秋冬コレクションで「A-POC(A Piece of Cloth)」を発表した後、原宿の会場の隅で「今回のコレクション発表は、どうしても一言っておきたいことがあるので行った」と私に語った。真意は、20世紀モードの冒険の歴史をあたかも天から与えら
れたものであるかのように無視して、凡庸な美の探究に陥っている若い世代への不満ではなかったか。
たしかに、新しい素材は大事である。新しいテクノロジーも大事である。また、新しい造形への努力も大事である。しかしながら、衣服の制作をわれわれひとりひとりの人生の「いかに生きるべきか」という根源的な問いかけや迷いへのヒント、人生の喜びへのイニシエーションとすることはできないか。三宅一生の「A-POC」の試みは、そうした問組提起への回答ではなかったか。一見プリミティヴな形態だが、チューブ状の一枚のニットの布にはコンピュータ・プログラミングにより、帽子、ワンピース・ドレス、ソックス、バッグなどのアイテムがメッシュ状の切取線と共に編み込まれている。着用者自身が、ミニ、ロング、長袖、半袖というように自ら切り取って衣服にする。着用者とともに衣服を創造する新たな試みといえる。むろん、事前に切取線が編み込まれていたりしていることからもわかるように、着用者の参加には限度がある。しかし、「A-POC」の試みの中でわれわれが聞
き取らなければならないのは、共に衣服を作る喜びへの誘いの声なのである。ここでは、近代のモードが長い間扱いかねてきた「身体と衣服」の関係が、楽しい雰囲気の中で止揚されている。第2の皮膚としての布地は、むしろ生身の皮膚よりも可変性に富み、身体のもつアイデンティティの枠組みから軽快に飛び出していくことを可能にしている。
三宅一生は現在、篠原大とともに「A-POC」に全力投球している。「ISSEY MIYAKE」は滝沢直己に任せているが、他にも以前から彼のもとで多くの若手デザイナーが行ち、独立して活躍している。なお、「イッセイミヤケ」ブランドにロードゥfヅセf ロード今TJ 七イオムは香水部門があり、L’Eau d’Issey´L’Eau d’Issey homme´Le Feu d’Isseyなどを展開している。