ジバンシィ GIVENCHY:1952-(FRANCE)

ジバンシィ GIVENCHY:1952-(FRANCE)

ジバンシィのデザイナーがまた変わった。6年前に創業者デザイナーであるユベ-ル・ド・ジパンシィが引退して以来、これで3人目となる。周知のように、現在ヨーロッパのハイファッション界では巨大な企業連合がブランドの買収・合併をめぐって仁義なき戦いを繰り広げているが、今回LVMHグループに属するジパンシイの主任デザイナー、アレキサンダー・マックイーンが自分のブランドをライバルのグッチ・グループから立ち上げたことから辞任、その後継者に新鋭ジュリアン・マクドナルドが指名されたのである。(2017年08月17日 最終更新)

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マクドナルドは英国ウェールズ出身、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの・卒業コレクションがカール・ラガーフェルソの目に留まってシャネルのプレタポルテに抜擢された28歳の新鋭デザイナー。ジョン・ガリア-ノ、アレキサンダー・マックイーンに続いて、またしても若手イギリス人の起用となったわけだ。
ジパンシィ自身の意志が反映されているかどうかはさておき、こうした後継者の選定から、LVMHグループが「ジバンシィ」ブランドをどう構築しようとしているかはある程度見えてくる。すなわちグラマラスかつショッキングなコレクションを発表する革新的ブランドのイメージだ。さもなければ、前衛的なテイストで知られる若手デザイナーを連続して起用するわけはない。しかも彼ら3人に共通するのはイギリスの労働者階級出身であり、庶民的なエネルギーによって上流階級的な美学へと介入していく強い個性の持ち主であることだ。彼らはフランス文化の伝統を継承するクチュリエであったユベール・ド・ジパンシィと、いかなる意味においても似ていない。とりわけ老舗ブランドのデザイナーとして「問題児」マックイーンを起用するのは冒険でもあったろうが、そのリスク以上にブランド・イメージを変革するというマーケティング戦略が優先されたということだろう。
ところで、このブランドの創設者、ユベール・ド・ジパンシィの40年以上にわたるキャリアは、まさに占き良きフランスのクチュール文化を代表するものだった。彼の作り出してきたスタイルはクラシックかつシンプルなエレガンスを特徴とし、これまでも上流階級の女性たちゃハリウッドの女優たちを顧客としてきた。ユベールは全盛期のパリ・オートクチュールの血統を受け継いだ最後のデザイナーなのである。
1927年フランス・ボ-ヴェに生まれたユベールが、ファッション・デザイナーを志したのは10歳のとき。パリ万国博覧会に連れて行かれたユベール少年は、そこに出品されたオートクチュール、とりわけランバン、シャネル、モリヌー、スキャパレリなどの華やかなドレスに心を奪われた。しかしアッパー・ミドル・クラスの家族は彼に法律の仕事につくように願った。そのため17歳で大学入学試験を受け、公証人事務所で働き法律家の道を歩むが、やはりモードの仕事につくことを決意。45年よりジャック・ファット、ロベール・ピゲ、ルシアン・ルロンのもとでクチュリエ修行を積みながら、美術学校でドローイングの勉強に励んだ。47年ファッションとシュールレアリスムを合体させたスキャパレリのメソンに移り、4年間デザイナーとして働いている。
彼が働きはじめた1940年代後半は、ディオールのニュールックが大ブームとなっていた時期だった。つまり実用的な戦時中ファッションの反動として、デコラテイブで構築された女性の美しさが見直された時期である。しかし、この時代のトレンドとは異なり、ジバンシィが私淑したのは、クラシックでシンプルなラインを追求したクリストバル・バレンシアガだった。このスペイン出身の巨匠は、過剰な装飾を嫌い、裁断と縫製がそのまま衣服の構造となり、布地が女性の身体の一部になるようなデザインを作り上げた。52年からコレクションを始めたジバンシィは、翌年パレンシアガと出会い、巨匿の服飾美学と技術を学んでいく。師と同様、ジパンシィもまた素材を重観し、シンプルな裁断と縫製による、エレガントなミニマリズムを追求することになる。パレンシアガは社交的な人間ではなかったが、ジパンシィには心を開き、スケッチや作業風景を見せるなど交流を深めた。自らの
メゾンを閉じるときも、有能な技術者にはジパンシィのもとで働くように声をかけるくらい、その信頼関係は固かったという。
もう一人ジパンシィに影響を与えたのは、女優オードリー・ヘップバーンである。映画『麗しのサブリナ」に出演することになったへップパーンは、パリのファッション維誌で修行するヒロインの衣裳を依頼して以来、その死の直前までジパンシィの最も熱烈な顧客であり、友人でもあり続けた。(もっともこの映画から生まれて日本でも流行したサブリナ・パンツは、ハリウッドの名コスチューム・デザイナー、イーディス・ヘッドによって作り出されたものだったが) 。ジパンシィもまたオードリーのしなやかな少女のような身体に理想のモデル像を見いだした。確かに、シンプルなラインの美しさを特徴と
するジパンシィのドレスは、豊満なボディよりもスレンダーなボディにこそよく似合う。 オ-ドリーがその主演映画で華麗着こなすことで、ジバンシィのやブランド・イメージもまた高められていったのである。
初期のジパンシィのコレクションはオートクチュールの歴史に二つの革新をもたらしている。一つはセパレーツという発想を打ち出したことで、上下が交換可能なパーツから構成されるスタイルは当時まだ主流ではなかった。もう一つが、ワイシャツ地をつかったコレクションで、その代表作はベツ
ティーナ・ブラウスである。このブラウスは立て襟とラッフルの袖のついたシャツで、50年代に大きな人気となっている。いずれのアイデアも豪華なオートクチュールにおいて、合理的・経済的な提案をした点が新しく、当時ジバンシイも「アンファン・テリプル」と呼ばれたほどだった。
ジパンシィは装飾に頼らず、衣服の構造によってデザインをおこなうという意味で、ファッション・デザインのモダニズムを追求したといえる。その点で、彼はディオールではなく、パレンシアガの伝統を継承するクチュリエなのである。
この点から見ると、後継者デザイナーたちとユベールとの相違はより明らかとなる。
1年でディオールに移籍したガリアーノはともかく、その後の4年間を引き継いだマックイーンは、前衛的なデザイン、ショッキングなコレクションの演出、ストリート・カルチャーや若者文化からの影響などを持ち味とするデザイナーだ。
つまりディオールの系譜に属するデザイナーなのである。16歳からテーラーで修行をしたマックイーンは、確かなな技術に裏打ちされた、鮮やかなイメージ作りにおいてその才が冴えるクリエイターなのだ。
長期にわたる顧客の減少によって、オートクチュールはもはや注文服産業ではなく、香水などライセンス商品のためのイメージ発信装置となっている。その流れの中で、ブランドとしてのジパンシィも大きな変革の時期を迎えているようだ。
そこには、いわゆる「フランス文化」を新しく定義しようと格闘するパリ・ファッション産業の現在が生身しく映し出されているといえるだろう。
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